夢小説における「キャラ×あなた」というもてなしの精神
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私がかつて最初のドリーム小説(夢小説)の同盟に出会った時、そこには「キャラ×あなた」と書いてありました。JavaScriptによる名前変更機能があり、物語としては今ほどに多彩なものはありませんでしたが、素敵なキャラクターに告白されるだけで、ときめいたことを覚えています。
何故自分でも書こうとしたのかあまり記憶はないのですが、いざやってみようとした時、中々難しい技術を使っていると感じましたし、すぐにはちゃんと動きませんでした。少なくとも当時は、名前変換機能という目新しいやり方が先行しており、ネームレスという概念も無くはなかったのですが、皆がこぞって名前変更機能を活用していました。ドリーム小説を書くには、一定以上の情熱が必要でした。
自分だけで「キャラ×自分」を書くのであれば、それは自分の名前を入れた小説であればいいはずです。名前を巧妙に隠してネームレスとしなくても、自然と名前が出ても問題はありません。「キャラ×オリキャラ」であれば尚の事、そこには制約は存在しません。
しかし、ドリーム小説が夢小説と名前を変えた今も、その根底は「あなた」であると私は思っています。読者を主人公とすること、読者に捧げるものであることが、読者に夢を与える夢小説であると考えています。
名前を読者のものにできる、または読者以外の名前を出さない、というのは特に日本人において「名前」が個人を表す意識が強いからだと私は捉えています。そこをどうにかしようとするのは、主人公がオリキャラでもなく自分でもない「あなた」とする夢小説の作者達の配慮であり、私はとても好きな考え方です。
主人公の設定をなるべく固めないようにするというのも「あなた」を他人にしないための工夫です。しかし物語の中で「あなた」をより自然に輝かせるために魅力の打ち出し方を考えるでしょうし、「あなた」を引き入れるためにその情感を小出しに作品へ差し込みます。夢小説は、そういったバランスの非常に難しいジャンルであると感じます。
夢小説は、「自己投影」と共にネガティブなイメージで語られることがあります。私自身は夢小説が自己投影でも感情移入でもいいと思いますし、そもそもそこの境界は曖昧ですし、どの感情でもないものだとしても、「あなた」が夢小説を楽しめるならばそれが一番です。
夢小説を公開している人達は、意識せずとも「あなた」に何かのときめきを届けたくて公開していると思います。受け取っている人達も、そのときめきを感じ取ってくれているのだと思います。ですから、時々夢小説に向けられる視線に苦しくなることはあっても、夢小説という創作の精神を自ら否定しないでほしいと願っています。多くの創作ジャンルにも共通することかもしれませんが。