私は「ざまぁ」が好きじゃない件の考察
(公開日:)
私は最近異世界もののWeb漫画を漁っている。完全に現実逃避だ。
ヒロインやヒーローがファンタジーな世界で冒険を繰り広げながら幸せになっていく様子に慰められながら生きている。
しかし、その中でも私は、
- 主人公をいじめる極端に悪役化された人間
- 主人公を追放する多くの人間や国など
こういうものが出てくると、気配によってはその場で読むのを止める。
気配というのは、いわゆる「ざまぁ」に相当する。
- 主人公を完全に排除しようとするものの上手くいかず焦り失敗する
- 主人公を追放した後上手くいかず崩壊する
多くの人はこういったものにカタルシスを感じるのかもしれないが、私はこれがとても苦手だ。
理由の1つには、いわゆる共感性羞恥があると思う。私は主人公に限らずほとんどのキャラに共感性羞恥が働く。
いや、ただの広範囲な不安なのかもしれない。「不穏な気配」そのものが苦手だ。
あと、これはメタ的な見方だが、物語の為に不自然なまでに悪として創られてしまった悪役を見るのが辛い。私はどうも、そういうものが「悲しい命が創造されてしまった」と感じられるらしい。あらゆるものが付喪神になる可能性があることを恐れすぎていると言える。
ただ、最近読んだ本で少し、別の要素もあるな、と考えた。
その本は、自己肯定感に関する本で、「条件なしに自分を受け入れることが自己肯定感」という定義を元に具体的な方法論も交えて書かれている。これについては私の暫くのもやもやの解決になった。自己〇〇という言葉が増殖し、恐らく言葉の生まれた当初の意味から離れた使われ方をしている結果、いくつかの自己肯定感の本は無暗に私を混乱させ傷つける結果となっていた。かつて私が想定していた通りの意味として分かりやすく定義してから始まる内容は、まだ結果こそ出ていないが信頼には足るし、安心して読み進められた。
ちなみに自己肯定感の話自体は今回脇に置いておく。
本には、自分を赦し、他人を赦すという話が含まれている。そして、
- あなたを傷つける人は自身が傷ついているからそうする
- 罪を憎んで人を憎まず
- 傷つけられた時、傷ついていた相手の幸せを願うくらいの方が、結果的にあなたの心を安らげる
という話へ続いていた。
この部分で、私は母のことを思い出した。いや生きているが。色々あって、折り合いをつけていると思ってもそうしきれていないと自覚している。だが、傷ついている、彼女もこの人生で沢山傷ついてきたんだと思いやることで、私はまた少し「赦す」ということへの理解を深めた。
同時に、私が「ざまぁ」を苦手とすることに、希望を抱いたのだ。
私は「赦したい」のではないかと。
- 許されざる罪を犯したとしても、その人が破滅する様子を目の当たりにして喜ばしい気持ちにはならない。
- 多くの人が主人公を疎ましく思っていたとしても、全ての人や時には自然までもが赦されずに破滅していいのか。
勿論この考え方には綺麗事が含まれている。私の心を安らげたいだけである。優しい人達と信念のある敵役による爽やかなファンタジーが一番の好物だ。私は心が弱いから。または、赦されたいのかもしれない。「共感性赦されたい」はありえる。
でも私は、自分がもっと冷酷な奴だと思っていたから、許せないものは赦せないと思っていたから、これは中々良い発見だった。
「ざまぁ」は苦手だ。だからそういう気配がすると読まなくなる。
だから、傷ついて傷つけてしまった彼らが最終的にどうなったかは、私には見届けることはできない。
それも読者という名の観測者として無責任で申し訳ないと思うが、考えすぎであることは自覚している。
何はともあれ、主人公と皆様の幸せを祈る。